柴田元幸さんにきいたアメリカ文学とねむり

柴田元幸さんにきいた
アメリカ文学とねむり。

アメリカ文学の翻訳で人気の柴田元幸さんに、アメリカと文学と眠りについて、きいてきましたシリーズ第2夜(4回連続更新)。
今回は、いよいよ、現代アメリカと眠りに迫ります。

第1夜
古今東西の眠り文学
眠れなくなる文学

第2夜
現代アメリカ文学と眠り
ゴシック文学では、眠りは存在論的な崩壊につながる

第3夜
アメリカは夢と新しい現実を同時に作っている
アメリカ文学に見る、意志の強さと眠りの誘惑

第4夜
リトル・ニモとセンダック
眠りぎわ文学
まだまだある眠り文学

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第2夜
現代アメリカ文学と眠り

— 柴田さんのご専門である現代英米文学で「眠り」について考えると、「ねむり」と「死ぬ」こととが深くつながっているのではないかと思われます。一番象徴的なのが『大いなる眠り』の最後に書かれている有名な一節です。

柴田 そうですね。タイトルからして『ビッグ・スリープ』だし。

君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない。油でも水でも、君にとっては空気や風と同じことだ。君はただ大いなる眠りをむさぼるのだ。どうして死に、どこに倒れたか、などという下賎なことは気にかけずに眠るのだ。

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レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』 1939 双葉十三郎訳 創元推理文庫 写真は原書)

— もうひとつ、柴田さんの訳されたジャック・ロンドンの『火を熾す(おこす)』という短編では、主人公は極寒のアラスカで最後に眠るように死んでいきます。アメリカ文学は、眠りに象徴される動かなくなる、活動できなくなることへの罪悪感のようなものがあるのではないでしょうか。

柴田 おっしゃる通りです。アメリカ文学の特徴として、「常に動き続ける」ことを尊ぶという傾向があります。だから動かなくなること、止まること、眠ることということから、一気にそれが死ぬことまでつながってしまう。

おそらく眠ることを死ぬことに例えるっていうのは、他の国や時代の文学でも多分あるだろうと思います。あるんだけど、ジャック・ロンドンの『火を熾す』なんかを考えると、アメリカ文学はそういった「眠り・イコール・死ぬこと」の線が太いかもしれないですね。

やがて男は、うとうとと、これまで味わった最高に心地よい、満ち足りた眠りと思えるもののなかに落ちていった。犬は男と向かい合わせに座って、待った。短い一日は、長くゆったりした夕暮れに包まれて終わりに近づいていった。火が熾されそうな様子はどこにもなかったし、それに、犬の経験では、人間がこんなふうに雪の上に座り込んで火も熾さないなんて前代未聞の事態だった。

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ジャック・ロンドン『火を熾す』 1908 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング『火を熾す』所収。男が華氏零下50度(摂氏零下約45.6度)よりもっと寒いアラスカを一人(とついてくる野良犬と)で旅する物語)

— 一方、やはり「夢」も物語の大きなテーマとして扱われています。

柴田 夢の世界に入るということは、もう一つの別の世界に入るということで、それは昼の合理的な世界とは違う、不合理で怖い世界だけど、どこか魅力的な世界である、ということがほとんどですね。その場合は罪悪感とかそういうことではない。

— 夢の怖くて魅力的な世界に見られるように、暗い、悪い、恐ろしいものと現実との境界線がない話もアメリカ文学のもうひとつの特徴かなと思ったんです。

柴田 物語が夢と結びつくということはよくある。ということは、物語は人間の無意識の側面、闇の側面の探求であるということはある程度一般論として言えるでしょうね。その中でアメリカ文学は、特に物語で人間の闇を探るという側面はおっしゃる通り強いですね。

今から見るとすごく図式的で誰も付き合わないんだけど、フロイトが理論を立てて、マリー・ボナパルト(フランスの作家、精神分析学者 1882-1962)という人がそうした図式を文学に応用したんですけど、彼女が分析の対象にしたのは(アメリカンゴシック文学の源流でもある)エドガー・アラン・ポーですから。

ポーの『アッシャー家の崩壊』では、冒頭、語り手が馬に乗って森の奥のアッシャー家に行くんだけど、それを批評家なんかは人間が眠りに落ちる瞬間の比喩だっていうふうに考える人も多いんですよね。だからそこで起きていることも夢の中で起きていることとして読んでもいいんだという読み方も多い。

あまりに館と地所に関して想像力を働かせすぎたせいか、わたしはついに館や地所やその周辺が特別な気体に包まれているのではないかと本気で思うようになったのである。 ー 特別な気体、それは大気とは関係がなく、腐敗した木々や灰色の壁や深閑とした湖から立ちのぼるものー 有害で、得体の知れない蒸気のようなものだった。鈍く、重く、微かだが眼に映じるほどの。薄い灰色の。
わたしは身震いをして、その夢としか思われないような想念を振り落とし、館の実質的な外観をより仔細に眺めてみた。

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エドガー・アラン・ポー『アッシャー家の崩壊』 1839 西崎憲訳 ちくま文庫『エドガー・アラン・ポー短篇集』所収)

柴田 あ、わかった。眠りをやましく思うのは、昼の世界的な自分、つまり「意志を持つ自分が世界をコントロールするんだ」という姿勢が前に出ると、眠りは死だ、よくない、というふうになっていきますね。そして昼の合理的なものとは違うものにひきつけられてしまう人たちは闇の物語に行く。そういうことだろうと思います。で、作家自身はだいたい後者ですね。ポーは典型で。

ジャック・ロンドンはそうだなぁ、特別だね。でもやはり自分でなんでもコントロールするんだというマッチョ的なところもありますね。チャンドラーの場合はイギリスで教育を受けているから、ちょっとそういうのを皮肉に見ているというのはありますね。

— 昼は表層的で噓に染まった作り出した世界で、夜は深層であって真実である、という図式ですか。

柴田 その図式自体がもう20世紀の終わり頃には疑われていて、例えば日本の文芸誌なんかでも新人作家がみんな夢を出してくると、夢で真実を表すなんて陳腐だ、と批評家が言う(笑)。まあそれはその通りだと思いますよ。でもそれも一周しちゃって、夢にもやっぱり真実はあるし、みたいに柔軟になってるのが、ニュー・ニューゴシックっていう考え方ですかね。

新しいゴシック文学では、眠りは存在論的な崩壊につながる

— ニュー・ニューゴシックは、新しい、第四のホラーゴシック文学のことですね。その中でおもしろい人はいますか?

柴田 眠りというつながりでいくと、圧倒的にブライアン・エヴンソンですね。それからスティーヴ・エリクソン。

ポーのよく書くシチュエーションっていうのは、「寝て起きて、ここはどこだ」って思うような状況。つまり、「私」の一貫性が信じられない人なんですね。寝て起きたら昨日の私と今日の私に連続性があるってことが信じられない。通常、「私」の連続性というのは、誰もが記憶、肉体もだいたい一緒だろうと思えるからあるわけですが、それが信じられない。エリクソンもエヴンソンもそういうのを受け継いでいます。

哲学的には記憶ってことが支えになるわけだけど、記憶というのは要するに過去から続いてる自分の物語ですよね。その点、アメリカ人は、過去から自分が続いてるっていう物語をもう信じないところから始めています。

アメリカ的な理想としては、「私」というものは、(ヨーロッパのように)生まれや階級によってあらかじめ与えられた、よかれあしかれそんなに堅固なものではなく、個人が一からつくりうるものです。

その一方、そうした自由は往々にして自分が何者かわからない、という不安と表裏一体にならざるを得ない。「目が覚めた、ここはどこだ」っていうのは、それ自体は恐怖小説の常套手段ですが、「私」の連続性が保証されないアメリカ的自由と不安をどこか反映していると思える。

— そこは建国以来200何十年たっていても、歴史などの外部と途切れてる感じなんですね。

柴田 かなり根深いと思いますね。ジョナサン・リーセム(日本ではレセム)という作家がいて、彼は書き手としてもそうなんだけど読み手としてもすごくて、アンソロジーを作ってるんです。アムニージア(記憶喪失)に関する物語のアンソロジー。そうなるとアメリカ文学中心になるんですよね。リーセムと仲のいいスティーヴ・エリクソンには『アムニジアスコープ』という作品もあります。

そうだ。最近のものでは、キース・リー・モリスという作家の『トラヴェラーズ・レスト』という小説もそうです。ある一家がアイダホ州の田舎のモーテルに泊まることになるのですが、空間も時間も4人の視点も一章ごとに異なり、不連続性が実にうまく不安や不吉さを描いています。それだけでなく、人間が見ている世界の曖昧さをめぐる考察も織り込まれる。まさに存在論的な不安が出ていますね。

昼との対照の夜っていうのはもちろん昔から言われていますが、そこで記憶をうしなう、「わたし」がなくなるという状態に陥るとき、死に行くのか、夢に行くのかっていう…。その対比がおもしろい。

— スティーヴ・エリクソンはネイティブ・アメリカンの血が入っていますが、存在論の確立にはなにか影響はありますか?

柴田 本人はあまりないようですね。自分にそういう血があることにある種誇りを持っているところもありますけど、たとえばおばあちゃんからインディアンの話を聞いた、みたいな、そういうしみ込んでるものはないですね。

どちらかというと、彼はロサンジェルスの映画産業の街に育って、現実と虚構がいちばん区別がない、現実がものすごくうすっぺらい感じの世界で生きてきたんでしょうね。

— マジックリアリズムというよりもリアルがなくて、無意識の領域が大きくなって、物語が夢のようになるということでしょうか。

柴田 簡単にいうと、無意識の力なり、真実なりを信じる態度をロマン主義というんだと思うんですが、そういう意味では一番時代錯誤的にロマン主義なのはエリクソンだと思います。

リチャード・パワーズくらい頭がいいと、無意識というものも、全て言葉になっていることを意識してしまう。「無意識ではこうだ」っていうのは、最初は発見かもしれないけど、それが教科書にのるようになると、それももう意識の一部だろうということです。「言葉の奥にある物語」という「言葉」だろうと。そこまで言葉が浸透してると思うかどうかってことですかね。

恐怖の黒い波が襲ってきたのはそのときだ。その瞬間、自分が正気を失いかけていることがわかったからだ。ものすごく奇妙で、ものすごく恐ろしかった。合理的な精神の説く声が聞こえてきて、その声が言っていることが正しいとわかっていても、私はそれを退け、クールに構えて、自分が崩壊していくのを冷静に見物している。私の魂は私の脳の言うことを全然信じなかった。(略)
部屋の明かりを点けた。シーツをはね上げて、長いあいだ自分の裸の体を眺め、それがブヨに覆われていないことを何度も自分に言い聞かせた。一時間経って、ようやく自分の言うことが少しは信じられるようになってきた。やっとシーツを掛け直して、明かりを消し、眠りについた。

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スティーヴ・エリクソン『アムニジアスコープ』 1996 柴田元幸訳 集英社)


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ジャック・ロンドン 『火を熾す』 (スイッチ・パブリッシング『火を熾す』)

第3夜につづきます。

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ジャック・ロンドンは『白い牙』が有名だよねー。

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柴田元幸 
しばた もとゆき

翻訳家。1954年、東京生まれ。東京大学名誉教授。文芸誌『MONKEY』(Switch Publishing)編集長。『アメリカ文学のレッスン』、『愛の見切り発車』、『猿を探しに』、『柴田元幸と9人の作家たち ナイン・インタビューズ』、など著書多数。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞を受賞。ポール・オースター、リチャード・パワーズ、スティーヴ・エリクソン、レベッカ・ブラウン、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベックなど、現代アメリカ文学を中心に訳書多数。現在、『村上柴田翻訳堂』を新潮社でシリーズ翻訳中。

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文芸誌 『MONKEY』

更新日:2017年1月11日 書いた人:小森岳史

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