柴田元幸さんにきいたアメリカ文学とねむり

柴田元幸さんにきいた
アメリカ文学とねむり。

アメリカ文学の翻訳で人気の柴田元幸さんに、アメリカと文学と眠りについて、きいてきましたシリーズ第3夜(4回連続更新)。
今回は、アメリカ建国に隠された、意志の強さと、眠りの誘惑について。

第1夜
古今東西の眠り文学
眠れなくなる文学

第2夜
現代アメリカ文学と眠り
ゴシック文学では、眠りは存在論的な崩壊につながる

第3夜
アメリカは夢と新しい現実を同時に作っている
アメリカ文学に見る、意志の強さと眠りの誘惑

第4夜
リトル・ニモとセンダック
眠りぎわ文学
まだまだある眠り文学

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第3夜

アメリカは夢と新しい現実を同時に作っている

柴田 パワーズとエリクソンだと、エリクソンの方が世代的には上なんですよ。60年代の熱さをエリクソンは知っている。エリクソンは50年生まれ、パワーズは57年です。僕は54年なので、だいたいこのへんが分かれ目なんです。

52年生まれくらいまでの人は、たとえば大学紛争が体に残っている。ビートニクは終わってますけど、ヒッピー文化はありますし。アメリカン・カルチャーとしては文学よりもむしろ音楽ですね。ロック。それまであったのはロックンロールで、それがロックになるのは60年代後半のことで、単にラブソングだけではなくなり、もう少し世界を広く扱うようになる。

— そのあたりで夢を扱った歌、それこそ『Daydream Believer』(モンキーズ)じゃないですけど、多いですよね。その頃は、若者たちに現実を組み立てようという意志が希薄だったのでしょうか。

柴田 一方では、すごく教条主義的に自分たちが新しい現実をつくるんだっていう動きもあるんですよ。そういうのは今聴くとすごく古臭い感じがするんだけど。

一番象徴的なのは、ジェファーソン・エアプレイン。わりと時代を象徴するバンドだったんだけど、彼らに『We Can Be Together』(1969)っていう曲があります。それより前にあった、フォークソング的な『We Shall Overcome』(1901年に黒人霊歌として作られたが、60年代の公民権運動時代にピート・シーガーがひろめた。ジョーン・バエズの録音も有名。邦題は『勝利を我らに』)とかそういうもののロック・バージョンですよね。

でも、あの頃はそういう風にとても思えなかったけど、今これだけ離れてみると、『We Shall Overcome』は60年代前半の市民権運動バージョンで、それがウッドストック世代のロック・バージョンだと『We Can Be Together』になり、あとビートルズの『Come Together』なんてのもある。そういうところにはけっこう組み立てようという意志がある気がする。

一方では、サイケデリックってものがある。意識を超えたもの、意識の外にあるもの、それからドラッグ・カルチャー。R.D.レインの心理学とか、狂気っていうのがすごくロマンチックに捉えられていました。「俺たちが見えてないものがあいつらには見えててかっこいいのかも」とか思ったりする。あと東洋ですね、禅。それから「子どもの発見」。つまり、合理的な社会の外にあるものに新しい価値を見出すっていう姿勢はあって、それに見合った音楽がサイケデリック・ミュージックだった。

そこで「眠り」っていうのがどこまでクローズアップされるかっていうのはすぐにはわからないんだけど、パッと思いつくのは、モンキーズの『Daydream Believer』と、ラヴィン・スプーンフルの『Daydeam』っていう曲がありますね。

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ラヴィン・スプーンフル 『Daydream』

— 夢の文化が大きくなってきたからこそ、現実を組み立てようっていう力も相対的に大きくなってくるんでしょうか

柴田 そう、実は対立してるんじゃないんですよね。むしろこっちのサイケデリックなパワーを借りて、俺たちはもっといいこっちをつくるんだ、異次元への扉っていうことだと思いますね。

そうした「現実を構築しようとする意志」は文学や時代に限らず、アメリカのカルチャー全体に横たわっているんですね。

アメリカ人はみんな国というものをみんな自分のものだと思っているから。『ボウリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアも、「俺のアメリカを返せ」っていっている。ああいう感じだね。”アメリカを作ること”と”私を作ること”が結びつく。そこはヨーロッパとは違う。

あの、すごくユーモアの精神があったヘンリー・デイヴィッド・ソローでも、ウォールデンに住み始めた日にちを7月4日(アメリカの建国記念日)にしてる。そういうところでいちいちこう、自分は何者か、ということを考えるときにアメリカとは何か、ということを考えるのがセットで出てくるというのが面白い国ですね。

アメリカ文学に見る、意志の強さと眠りの誘惑

— 現実の中にある虚構性、また、存在論的に不安になる要素として、死があって、これはかなり眠りとつながっている。

柴田 そうですね。

— 自己はつくりだすものという意識が強いからこそ、眠ってしまうと、自分でコントロールができないから恐れがあるとは考えられませんか。

柴田 おっしゃるとおりですね。僕の書いた論文集『アメリカン・ナルシス』(2005)の中に書いた、ポーの小説『ウィリアム・ウィルソン』の話では、自分が自分の主人だという気持ちが強くて、逆に分身みたいのが出てきてしまうという話です。それで、分身というのは常に死のにおいがしますね。

— 『ウィリアム・ウィルソン』は主人公の分身とも言える、名前も生年月日も服装も容貌も同じ人物が出現する、と言うはなしですね。

柴田 ウィリアム・ウィルソンという名前は仮の名ですが、ここには「われは意志なり、意志の息子なり」(Will I am, Will’s son)という、あからさまな寓意が込められています。幼い頃から「完全に自己の行動の主人であった」というこのウィリアム・ウィルソンは、自分の意志で自分を創造し、自分の父たらんとする人物なんですね。でも、そうした自己創造への意志は、逆に分身を引き寄せて、自分が分裂してしまいます。

— ドッペルゲンガーや分身的な物語の面白さとは別に、自分を作り出す意志、自分をコントロールする意志の話であるということですか。

柴田 「自分自身であることの不可能性」という主題が、アメリカ文学全体に関わって来たと言っても過言ではないでしょう。あの『トム・ソーヤーの冒険』から、『グレート・ギャツビー』、さらには『白鯨』もそうです。

— 分身ではないですが、ポール・オースターの『ガラスの街』の主人公も同じ「ウィリアム・ウィルソン」というペンネームでミステリを書いている設定です。

柴田 オースターの登場人物は、しばしば無謀・無理な、かつひょっとしたら無意味な任務を自分に課し、そのあまりの無謀さ、無意味さによって読者に感銘を与えます。その中でも、たった一人で誰かを見張るという、実は何日にも渡って一睡もしないことによってしか完璧に遂行できない任務を自分に課すのが『ガラスの街』のウィリアム・ウィルソン、本名はダニエル・クインですね。

第二の問題は睡眠だった。一日中起きていることは不可能だが、実のところ事態はまさにそれを要求している。ここでもやはり、妥協を強いられることになった。(中略)いままでのように六時間から八時間眠るのをやめて、三、四時間眠ることにした。これになれるのは大変だったが、もっとずっと大変だったのは、最大限の見張りを維持するためにその三、四時間をどう配分するかという問題だった。明らかに、三、四時間続けて眠るのは論外である。どう考えても危険が大きすぎる。理論的には五、六分ごとに三十秒眠るのが最も効率的な時間配分だろう。(中略)それは長い苦闘だった。実験が長くなればなるほど疲れも増していき、自制と集中が必要だった。

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ポール・オースター 『ガラスの街』 1985 柴田元幸訳 新潮文庫)

柴田 冷静に考えれば、原理的には1分も寝てはいけない仕事を自分に課すこと自体、単に寝不足で頭が回っていない証拠かもしれません。そういう普通でない精神状態に登場人物を追い込んでいって、なぜか説得力と切実さを持たせてしまうのがオースターのタチの悪さです。

— これも自分をコントロールしようとする強い意志の表れでしょうか。

柴田 もちろんそれを、なかば批判的に見ているわけですが。

— 『火を熾す』では、最後に、これまで味わった最高に心地よい満ち足りた眠りに落ちていく。だから死を受け入れているわけですね。それと対比するようにまだ生きている野良犬がいて。

柴田 この淡々とした感じはたしかに異様ですね。だからこの男は意志の力で世界をコントロールできると思ってるわけですね。それがどんどん崩れてくっていう。結末は最初から見えてるのに、で、見えてる結末に向かってただ進むだけなのに、なんでこんなに読ませるのかなっていうのがすごいんですよね。やっぱりとにかく、小説は現場主義かなとあらためて思う。現地を知ってるっていうのは、ロンドンはアラスカでそれなりに辛い思いをしてきたから、そういうのは生きるもんですね。

彼にしては丁寧に書いたっていうのは、二度目っていうのが大きいかもしれないですね。実はこの小説はハワイかどこかすごくあったかいところで書かれたんです。ただ彼は、この数年前にこの男が生き残る、犬もいない、もっと短いバージョンを書いてるんです。同じ『火を熾す』というタイトルで、少年向けの冒険雑誌に載ったんです。数年たって、やっぱり不満だったんでしょうね。もう一度記憶で書いたんです。骨組みは同じだけどやっぱり細部の言葉とかは違う。1回目の原稿も残っていて、訳もしました。(『火を熾す』1902年版は雑誌『Coyote』No.34 January 2009に掲載)

— 意志の力でコントロールしようという力が崩壊していって、自然に負けて眠りに入っていく。やはり象徴的に、今までの行動が止まってしまうっていうことですよね。

柴田 うん、だけどそれを甘美なものとして提示してるっていうのが、物語的にはおもしろいんだよね。これが、「ああ俺はこんな風に死んでいくのか。悔しい」とか、自分の意志の力を過信するんじゃなかった、みたいに後悔して死ぬように書くのだと、このインパクトはないんだと思いますね。

犬がでていることも作品にとって本当に重要ですよ。最初のバージョンでは犬はいないんです。犬はいないし、主人公にも名前(“トム・ヴィンセント”)がついていて、一人の個人だったんです。これを書き直した時に「男」にしたのはすごく強いですね。万人の運命みたいなところがある。原文だと「The man」です。

— 「The man」なんですね。定冠詞がついていることで、構築している、意志のあるストーリーという風に感じます。

柴田 おっしゃる通りです。三人称っていうよりは、この男のなかに入って書いていますから。そこに語り手の皮肉な目もありますけど。

ジャック・ロンドンは、なにかと戦って、たとえばボクシングでも、寒さとの戦いでも、だいたい勝つバージョンと負けるバージョンと両方書いてるんですね。『メキシコ人』という小説では主人公がボクシングで勝って、『一枚のステーキ』という小説では負けるわけですよね。それで、負ける話の方が本質的だなと思うのは、やっぱり最終的に人間は死に負けるからでしょう。そういう、絶対的な敗北があるっていう大前提でみんな生きてるんで。だから、『火を熾す』の2つのバージョンなんかでもあきらかに負けるバージョンの方が説得力がある。

眠りでもボクシングでもなんでもいいんですけど、自然の相手との闘いでも、年齢相手でも。最終的には負けるんです。でも逆にいうと、勝つ物語でもそれなりにリアルっていうのがロンドンのすごいところなんです。


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ポール・オースター 『ガラスの街』 (雑誌『Coyote 柴田元幸特集』 2007.10月号より)

第4夜につづきます。

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アメリカの建国にまで遡ることができるんだねー。

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柴田元幸 
しばた もとゆき

翻訳家。1954年、東京生まれ。東京大学名誉教授。文芸誌『MONKEY』(Switch Publishing)編集長。『アメリカ文学のレッスン』、『愛の見切り発車』、『猿を探しに』、『柴田元幸と9人の作家たち ナイン・インタビューズ』、など著書多数。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞を受賞。ポール・オースター、リチャード・パワーズ、スティーヴ・エリクソン、レベッカ・ブラウン、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベックなど、現代アメリカ文学を中心に訳書多数。現在、『村上柴田翻訳堂』を新潮社でシリーズ翻訳中。

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文芸誌 『MONKEY』

更新日:2017年1月12日 書いた人:小森岳史

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